アトリエ劇研10周年に際して、過去を振り返りそして未来に向けての通過点を刻もうと、この劇場で上演を行ってくださった方々、ここに足を運んでくださったお客様、そしてここを支えてきた関係者からメッセージを頂きました。
 劇場は人と人とのつながりでもっているものだと思います。この場所に所縁の深いこうした声を励みに、私たちはまた新たな、そしてより豊かなつながりを育むため、今後も頑張っていきたいと思います。


ご挨拶

 アトリエ劇研は、今年の4月に創立10周年を迎えます。「過ぎてみれば、あっという間の10年」という感じがしないでもありませんが、その一方で、発足当時から現在までの経過を具に振り返ってみるうちに、さまざまな思いが込みあげてきて胸いっぱい広がるのを禁じえません。
 それらの思いの最たるものは、現在もなお尾を引いている大不況下にあって、無謀にも敢えて開設に踏みきったこの小劇場が、常々きびしい運営を迫られながらも、休館や閉鎖の憂き目をみることなく、今日なお存続し活動できていることに因る大きな喜びであると同時に、この小劇場をめぐって何かとお世話になってきた多くの方々への深い感謝の念でもあります。
 アトリエ劇研は、この10年間の恒常的な難局を乗り切るために、ホールの稼働や機材の貸出しのほか、すでに4回もの演劇祭を始め諸種目のワークショップなど、さまざまな事業を果敢に展開し続けなければなりませんでしたが、その過程で常に・・より効果的な運営を迫られるままにおのずと体制の強化が計られるようになり、やがて数年来の課題となっていた法人化も、N.P.O.劇研の設立(2003年)によって達成されました。したがってアトリエ劇研は現在すでに、このN.P.O.劇研という・・より強固な組織によって支えられ、従来どおりの活動を保障されておりますので、今後とも宜しくご活用のほどお願い申し上げます。
 以上、この節目の年を迎えるに当って所懐の一端を述べ、私のご挨拶とさせていただきます。

2006年元日  館主敬白


土田英生:十周年に寄せて

 京都に住んでいるにも関わらず「アトリエ劇研」はとにかく遠い。今でも行く時にはかなりの覚悟をして出かける。それは多くの観客にも共通する意識だろう。辿り着いたとしても「アトリエ劇研」は見つけにくい。住宅地の中に隠れるようにして存在している。更にはその立地のせいで夜には声も出せない。公演の度に「外に出たらお静かに」と観客にまで頼まなければならない。とにかく不便な劇場だ。
 「アートスペース無門館」と呼ばれ、そこへ行けば強烈な個性の持ち主、遠藤寿美子さんに会えた頃からそれは変わらない。ただ、昔は事務所部分が一軒家だったので、一晩中、皆と過ごせたことはメリットだった。多くの素晴らしい仲間に出会い、多くの嫌な人にも出会った。
 そして「アトリエ劇研」と名前を変えてからも十年が経ったらしい。「燕のいる駅」をここで上演したのもその頃だ。
 本来ならこのような不便な場所が劇場として機能し続けるのは難しい気がする。にも関わらず存続して来られたのは、関わって来た人の力だ。当たり前のことだが、劇場の性格は人がつくる。いくら駅前にあって施設が整っていようが、職員に四角四面なルールの番人しかいないような劇場は魅力を持たない。オーナーである波多野さんの意志はもちろんのこと、関わって来た人達が情熱を持っているからこそ、アートスペース無門館、アトリエ劇研と続いて来た。
 劇場について書くとなると。どうしても個人的な関わりやエピソードばかりが出て来てしまう。そこで観た舞台、そこで上演した舞台。そこで出会った人や様々な出来事。もちろん情緒だけで劇場を語ることは出来ないが、自分の心の中を覗けば「アトリエ劇研」に対して友人に抱くような感情が潜んでいることに気づく。時には腹立たしく、時には親しみや懐かしさを抱く。
 当然のようにそこにある劇場。しかしその存在は人と同じように儚い。普段は意識をしなくても失った時にはきっと大騒ぎする。そうならない為にも人が今後も情熱を傾けて行かねばならない。長生きして欲しいという願いとともに、「アトリエ劇研十周年」を嬉しく思う。


吉本有輝子(前アトリエ劇研スタッフルーム代表):アトリエ劇研10周年によせて

 どのような劇場にしていこうか、明確なイメージがあってアトリエ劇研をスタートした訳ではありませんでした。確かだったのは、当時のアートスペース無門館のスタッフとしての劇場への愛着と、交流の場としての自由な小劇場が京都にひとつでも多くあり続けた方がいいという思いだけでした。
 その思いのなかで、館長とその時々のアトリエ劇研のメンバーとともに試行錯誤を繰り返してきました。10年の間に、様々な人に意見を聞き、プロデューサーを迎え、演劇祭やワークショップを開催し、NPOへと団体のあり方も変化しました。それは、アトリエ劇研をスタートしたときには想像も出来なかったような変化であり、その変化は今も続いています。
 活動の形や内容は変わっても、試行錯誤を繰り返す姿勢や、自由な雰囲気は今も変わらないと感じます。アトリエ劇研に関わるメンバーや、利用者、観客とも、常に変化し続けていくなかで、その時々の色をもった劇場になっていく、その過程でアトリエ劇研に関わり愛着を持つ人が少しずつひろがっていく、そしてまた劇場の色が少しずつ変化していく、その柔らかな積み重ねがアトリエ劇研そのものだと思います。
 舞台芸術のあり方やそれを取り巻く環境の変化とともに、アトリエ劇研のこれからの活動も変化と発展を続けていきます。しかし、設立時の、自由で豊かな場所として京都にあり続けたいという、その精神は変わることなく活動を積み重ねたいと思っています。
 この10年にアトリエ劇研に関わってくださったすべての方々、観客として足を運んでくださったすべての方々に感謝します。今後も、アトリエ劇研の活動にご支援ご協力をよろしくお願いいたします。

 

松田正隆

 一九九一年に、時空劇場という集団で初めて公演したのも、この場所だった。それゆえ二〇〇四年再びアトリエ劇研からマレビトの会として演劇活動を始めることができたのは、とても感慨深い。
 真剣にこの世界に向かって何かを表現しようと決心したとき、その起点になるのはいつもこの場所だった。外の世界の豊かさや暗部とつながっている場所としてまず最初に思い浮かぶのはこの場所以外にはないようにも思える。いずれにせよ、演劇は作り手に「場所」を要請する。私にはそれがアトリエ劇研だった。
そこがいかに小さな空間であろうと、舞台は荒野のようであって欲しい。何もない果てしのない荒野。どこからも社会的な価値を与えられず、ただぽつねんと荒野が存在するようにして劇場はあるべきだ。
そこでは、あのシジフォスのように石をあっちへやりこっちへやり運んでみたり、この世から忘れ去られた人たちが絶叫したり、死んだ者たちが頼まれもしないのに復活を遂げたりするのだ。
 フェリーニにチネチッタがあったように、私にはアトリエ劇研がある。

 

堂岡俊弘:「アトリエ劇研」10周年に寄せて(私的感傷編)

今年で10周年、ということは、劇研の旗揚げ(?)は1996年。
そのころ、私は、どこで、誰と、どんなお芝居をしていたのだろう。
今考えても、おかしなくらい何も具体的な事を思い出すことができません。
そこで、昔のチラシを見てみる事にしました。 →1996年、平成8年。
MONOで「約三十の嘘」をやってました。 映画にもなりました。
MOPで「青猫物語」をやってました。 ちょっとハズカシイ。
時空劇場もやってました。 内田さんは今でもご活躍!
そんな年だったんですね・・・・
「無門館」から、「アトリエ劇研」へ・・・・・・、
その流れは、そのまま自分を取り巻いていた演劇環境の変化でもあり、京都で80年 代を学生演劇バカですごしたものにとって、確実に来た一つの区切りでもあったような気がします。
芝居からはなれていく人、東京に行った人、京都に来た人、結婚する人、離婚した人、母になった人、父になる人、なくなった人、禁煙をはじめた人、太った人、髪が薄くなった人、行方不明の人、有名になった人、劇研に入ってくる人、新しい劇団を作る人、踊りだした人、歌ってる人、先生になった人、外国にいった人・・・etc
私は去年、劇研をはなれました。
旗揚げに立ち会った劇団員が、その劇団をやめるには、少しばかりのきっかけと勇気がいります。  (演劇人にとって、きっかけは、大切です)
あなたがそうであるように、劇団をやめたものは、いつでも自分がやめた劇団のことが、気になります。
私にとってそんな場所です、京都、下鴨にある「アトリエ劇研」は。
 
追記: そういえば、あの頃、遠藤さんは、まだ元気でうるさかったなぁ。

 

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