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岩渕貞太『UNTITLED』


エイリアンの身体 岩渕貞太『UNTITLED』



文・藤原ちから

岩渕貞太『UNTITLED』撮影:嶋田好孝


 今、デュッセルドルフからハンブルクへと北上するバスの中でこれを書いている。車中だからほとんど身動きはとれない。しかし巨視的に見れば、わたしの身体は移動している。グーグルマップのGPSがその事実を客観的に証明している。なぜ移動するのか? いちおう、目的があってハンブルクに向かっているのだが、究極的には、ただ移動したいだけのような気もする。踊りたい、という欲望があるように、移動したい、という欲望があったとしても不思議ではない。

 人間は大なり小なり移動しなければ生きていけない。特にアーティストは(批評家も)そういう生き物で、移動することを宿命付けられている。だがもちろん移動はリスキーでもある。ダンサー・舞踏家の室伏鴻は、その移動の途中で命を落とした。南米ツアーからドイツに向かう途中、乗り継ぎ地のメキシコ・シティの空港で倒れ、帰らぬ人となったのだった。

 室伏は生前、「俺は日本人でも何でもない、エイリアンになるんだ」(*1)と語っていたという。発言の真意は定かではないし、もはや確かめることもできないのだが、わたしはちょうど「エイリアン(alien)の身体」に興味を持っていた時にこの言葉を聞いたので、ハッとした。エイリアンという地球人に襲いかかる化け物のイメージが強いが、わたしが興味あるのはどちらかというとその元々の意味である「外国人・異邦人」のほうである。

 アーティストは(結果的にであれ)旅人となることが多い。彼/彼女はみずからの親しい場所を離れて、国や言語などの境界を乗り越え、異郷の文化や人々の生活の中に侵入していく。時にはその土地と深い関係を結び、移住するようなこともありうるが、完全にそこに同化することはできないだろう。彼/彼女がアーティストであることを辞めないかぎり、そのエイリアンとしての刻印を消し去ることはできない。

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岩渕貞太『UNTITLED』撮影:嶋田好
 岩渕貞太もまた、そうしたアーティスト=旅人=エイリアンのひとりである。実験精神に溢れており、とりわけ『UNTITLED』と名付けられたシリーズはその傾向が強く、これまで大谷能生(音楽家・批評家)や尾角典子(映像作家)らとコラボレーションを試みてきた。身体と音。身体と映像。みずからのダンス作品の中にそうした対置関係をあえて生み出すことによって、身体のありうる可能性を探ってきたのである。

 2016年4月に京都・アトリエ劇研で上演された『UNTITLED』は彼のソロパフォーマンスであったが、ある意味では、亡くなった室伏鴻とのコラボレーションであったとも言える。前半、まずは徐々にみずからの身体の可動域をひろげていくと、岩渕はやがて暗黒舞踏の動きを始めた。彼はもともと舞踏の薫陶を受けているそうだが、この場合は室伏鴻のそれにインスパイアされたものであるだろう。しかし彼自身がのちに「室伏さんの模倣でもない、追悼でもないことをしたかった」(*2)と振り返ったように、それは模倣でもなく追悼でもない何かであった。例えば、もっと自己陶酔的にトランスして痙攣することなどもできたはずだが、彼はそうせず、岩渕貞太自身であることをキープし続けたのである。言うなれば、室伏の身体をインストールすることによって、(異物を取り込むことによる)機能障害も含め、みずからの身体に起こるできごとをひとつひとつ確かめているようにも見えた。

 岩渕のダンスを読み解くキーワードのひとつに「中間」がある(*3)。この言葉を聞いて、もしかすると堀江敏幸の『河岸忘日抄』に近しいのではないかと思った。今、本が手元にないためにうろ覚えの話になってしまうのだが、あの小説は、河岸に繋留された船の中で暮らす「私」が、白とも黒とも結論の出ない世界にじっと留まり、ひたすら思索を続ける話だったと記憶している。河岸というのは、川でもなく陸でもない「中間」の場所であり、そこでは川の理屈も陸の理屈も通じない。だが、船はその河岸に繋がれて、そこに確かに存在しているのである。

岩渕貞太『UNTITLED』撮影:嶋田好
 岩渕貞太のダンス作品もまた、そうした河岸のような場所に留まり続けているのかもしれない。それは今の現実世界の潮流からすると、逆行、あるいは抵抗のようにも見える。多くの人が「わかりやすさ」を求める傾向はますます強まっていて、たとえ裏付けのない虚言であったとしても、強い言葉で、キッパリ白黒つけようとする人々がもてはやされているのだから。そういう意味では、とても頼もしい。しかし一方で、わたしの中にはその河岸に留まるような態度に対して懐疑的な気持ちもある。例えばわたし自身、ある程度「わかりやすさ」に手を染めることがあるのだが、それは批評家として、(文脈を共有していない)他者に何かを伝えたいからそうするのである。

 一方、河岸に留まって内省することは、他者へのコミュニケーションの意志を喪失することにもなりかねない。特にコンテンポラリーダンスの場合、「身体」という概念が実に厄介である。「身体」はダンサーたちを誘惑し、あたかもそこにこの世の真実があるかのように思い込ませる。岩渕の「身体」に対する実験精神もまた、そうした自閉の罠に堕ちてしまう危険と隣合わせだ。しかし、一方で彼は他者を意識してもきたはずである。前述したような『UNTITLED』のコラボレーションは、常に異質な他者との緊張関係の中にあったのだから。また彼が(たぶんダンサーとしては珍しく)読書家であるということも面白い。彼は様々なアイデアや思想を書物からも得ている。

 そんな岩渕に大きな思想的影響を与えたであろう先人・室伏鴻は逝ってしまったが、『UNTITLED』での両者の「コラボレーション」によって、その大事な部分は受け継がれたのではないかと思う。追いかける背中を失うのはつらいことだが、いつかは避けられないことであり、ひとりのアーティストをより進化させ、エイリアンとして脱皮させる契機ともなりうる。先人もおそらくそれを望んでいることだろう。

 今週末、秋めいているであろう京都で上演される新作『missing link』は、『UNTITLED』の続編であるらしい。試行錯誤はきっとこれからも続く。長い手足を持ったこのエイリアンは、様々に変態しながら、身体やダンスの可能性を探っていくのだろう。おそらくは河岸に留まったままで。だが、船を河岸に繋ぎ留めていたはずの鎖が、いつのまにか切れるということもいつかは起こるかもしれない。わたしその光景を見たいとも思う。自由になった船はゆっくりと動き出し、やがては海に出る。岩渕貞太は、いったいどの地平にたどり着くのだろう?


(*1)この原稿を書くために岩渕貞太にインタビューした際の伝聞。
(*2)同上のインタビューでの発言。
(*3)以下のインタビューを参照。 http://www.performingarts.jp/J/art_interview/1204/1.html



岩渕貞太『UNTITLED』撮影:嶋田好

藤原ちから
1977年高知生まれ、横浜在住。批評家、編集者、BricolaQ主宰。雑誌「エクス・ポ」、武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などの編集を担当してきた。批評家としては、徳永京子と共著『演劇最強論』(飛鳥新社)のほか、ウェブサイト「演劇最強論-ing」を共同運営。NHK横浜のラジオ「横浜サウンド☆クルーズ」では現代演劇について語っている。本牧アートプロジェクト2015プログラムディレクター、APAFアートキャンプ2015キャプテン。遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』を、横浜、城崎温泉、マニラ、デュッセルドルフなど各地で創作中。

岩渕貞太/岩渕貞太身体地図

『UNTITLED』

振付・出演 岩渕貞太



2016年4月2日(土)~3日(日)


4月2日(土)19:30
4月3日(日)15:00



岩渕貞太による実験公演シリーズ『UNTITLED』第3弾。
昨年6月に急逝した舞踏家・室伏鴻氏とともに活動した8年間の中で
岩渕自身が受け取った思考や身体観を、岩渕自身の思考と身体を通し
て向き合い「踊りとはなにか、身体とはなにか」を探る作品。

4月
山下残『大行進、大行進』
アソシエイトアーティスト・ショーケースA

アソシエイトアーティスト・ショーケースB

5月
ドキドキぼーいず
田中遊/正直者の会
劇団しようよ

6月
キタモトマサヤ/遊劇体

7月

8月
西尾佳織/鳥公園
多田淳之介/東京デスロック
Hauptbahnhof

9月
木ノ下裕一/木下歌舞伎
はなもとゆか×マツキモエ

10月
したため
キタモトマサヤ/遊劇体

11月
桑折現
250Km圏内
努力クラブ

12月
あごうさとし
ブルーエゴナク

1月
田中遊
きたまり

2月
笑の内閣

3月
山口茜
笠井友仁
村川拓也
岩渕貞太