人材育成と青少年育成の違い

2013年7月31日


 1994年に私が初めて手がけた演劇の事業『演劇ビギナーズユニット』(以下『ビギナーズ』)が今年で20回目を迎えた。数年前まで、私の中では、この事業も現在行っている『劇研アクターズラボ公演クラス』(以下『公演クラス』)も演劇の入り口を提供するということを目的にしているということで、同じものととらえていた。しかし、それらが実は違うものであるということに、今さらながら気がついた。


 違いは公演終了後の参加者の感想に顕著に表れている。ビギナーズでは「たのしかった」であり公演クラスは「しんどかった」である。はじけるような歓喜の打ち上げとなる前者とは対照的に、後者は疲れが漂う。前者は今年で20回目。募集においても一度も定員割れをせず、リピーターもいない。そして毎年抽選で参加者を選ぶという人気ぶりである。後者はこのところ参加者集めに苦しんでいる。この差はいったい何なのであろうか。


 決定的な違いは、前者は「青少年育成の事業」で、後者は「人材育成の事業」であることである。
前者の目的は「演劇創作を通じて、自己と向き合ったり、他人の考えを受け入れたりしながら、公演という共通の目標に向かって努力する体験をする」ことで、後者は「いい作品を作るための研鑽をつむ」ことである。
わかりやすくいえば、前者は作品の結果よりも「過程」を大切にしており、後者は「上演結果」を問題としているのである。


 そもそも、私がビギナーズを始めた時にも、劇団や劇場が主催する「演劇講座」は存在していた。私はそうした所をいくつか見学させてもらった後に、「これではない」と思ってビギナーズを作ったのである。「これではない」最大の原因は、参加者が楽しそうに見えなかったことである。
 私は、演劇を通じて「とても楽しく充実したひとときを味わってもらいたい」と思って、ビギナーズをつくった。自身の体験をもとに、それまでの演劇講座を反面教師にして、より楽しくなるための過程にこだわったのである。そのコンセプトはビギナーズ独特の講座の流れ(プロセス)に集約されている。(興味ある方はビギナーズをぜひ来年受けてみて下さい!)そして、そのプロセスがたまたまピタリと青少年育成の目的と符合した。今思うと、その出会いは幸運というしかないのだが、ビギナーズが長く続いたのも、実はここに秘密がある。全く同じプロセスの企画を劇場などで実施したことがあるが、ことごとく短命に終わってしまった。それは、主催者が「劇場」など文化施設であり、「プロセス」に評価基準を持っていなかったからである。つまり、青少年育成事業では「この事業を通じてどう若者達が変わっていったか」が大事であり、アンケートなどを通じて、その観点から事業を評価している。劇場にはこれがないのである。ビギナーズが続いているのは、若者たちが変わってゆくという、明らかな成果が見えているからである。


 公演クラスなどの人材育成目的の講座を始めたのは、「演劇の自己満足化に歯止めをかけねばならない」と思ったからだ。
 自分達が「楽しい」のと、「お客さんに楽しんで頂く」は違う。私の危機感は「自分達が楽しむ」「自分達がやりたいことをする」があまりに強くなりすぎて、「お客さんに満足して頂く」が弱くなっているのではないか、と感じている点にある。「ビギナーズ」のような企画をやり過ぎてしまったことにも、ある責任を感じている。ある責任とは、こうした企画を渡り歩く人々をたくさん生んでしまった責任である。
 ビギナーズが悪いわけでは決して無い。ビギナーズは人材の供給や普及という面で京都の演劇界に大きな貢献をした。しかし、ビギナーズは受講者に重きをおいた企画である性格上、観客に対しての責任ということを強く問われないがゆえに、「がんばれば、お客さんは喜んでくれる」という甘い認識を与えかねなかったのは事実だ。
 ビギナーズの参加者が「自己満足に安住している」とは決して思わない。あの自主練習の多さからしても、なんとかして鑑賞に堪えるものを作ろうという、なみなみならぬ意欲を感じる。ビギナーズでは毎年必ず「お客さんに満足してもらおう」ということがメンバー自らの発言によって確認されていたのも覚えている。しかし、ここでいいたいのは、そうした意識のことではなく「できたか、できなかったか」の問題である。青少年育成ではそこは「精一杯がんばった!」で良くて、人材育成では「できなければ(がんばっていても)ダメ!」となる。つまり、「観客に対して責任を果たすため、どれくらいのことをしなければならないのかを学ぶ」のが公演クラスなのであり、もっといえば「できるようになる」所だ。私の危機感のさきにあるのは、「頑張ったんだからしかたない」が普通になり過ぎて「できなければダメ」の意識が弱まってしまっていることなのである。それが、このところよく見受けられる「甘い」作品につながっているように思えてならないのである。そういう意味で、公演クラスはかつて私が見た「演劇講座」と目的は一緒だ。少し参加者がつらそうに見える所も似ている。
 さて、誤解無いように言っておくが、だからといってビギナーズの作品が悪いわけではなく、公演クラスの作品が全ていいわけでもない。つまりは、目的はどうであれ、できる人はできるし、できない人はできないということである。ちなみに、どちらの方法が結果を出したかを見ても、長く続いているビギナーズは大きな成果を残している。今までに350名(延べ人数ではない)を超える参加者得て、その約10%が専門的に演劇を継続し、関わった若手講師陣やスタッフはその後も大いに活躍している。青少年育成面のみならず、演劇の人材育成面で大きな功績を残したと言える。「入り口」というコンセプトも見事に果たしているのである。


 ところで、ビギナーズに期待して、一つだけ期待通りにいかなかったことがある。そこから劇団が生まれなかったことだ。いくつかその兆候があったものの、概ね短命に終わった。劇団を生むために、『演劇アドバンスユニット』という、ビギナーズ経験者向けの事業も企画した。演出やスタッフワークなど創作のほぼ全般に関わることができ、受講生に主体性をもたすプログラムだったが、それでも劇団を作るという動きにはいたらなかった。他に行った多数の同コンセプトのワークショップでも同様の結果であった。劇団を生むことにこだわるのは、教えることには限界があると感じているからだ。そもそも創造性は教えることでもない。私自身の体験からも、自分達が主体性を持って取り組む活動、(例えば劇団活動)を継続する中で、学んだり、発見することは、教えられるよりずっと多いと考えている。
 私が企画したこうした「講座モノ」で、その難題を初めて克服したのは公演クラスだ。長い長い試行錯誤を経てやっと結果が出た実感がある。3年間継続を謳って始まった現在のシステムになって、今年で2クラスが3年間を終えたが、そこから既にいくつかの演劇ユニットが誕生している。この動きはかつて無かったことだ。なぜ公演クラスは「主体性」を養うことに成功したのか。その秘密は「時間をかけた」ことにあると思っている。
 講座は1年単位で行われ、年間で120時間、自主練習も入れるとそれ以上を創作と練習に費やし、翌年にはさらにその内容を濃くしてゆく。お仕事や学業があっても、なんとか取り組めるギリギリ最大の時間だと思っている。このような「期間限定劇団」とも言える体験を3年積むことによって、自立できる自信と力が養えたと理解している。逆に言えば、主体性を生むためには最低でも、これくらいの時間が必要だったのだ。劇団を作るというハードルを越えるには、「楽しい」だけではない「地味で、面倒なこと」もしっかりやらなければならないという意識と、それをしっかりと遂行できる能力を合わせて身につけることが必要なのである。


 恐らく、ビギナーズで「楽しい!」と感じて演劇を続けた人のほとんどが、「責任を取るしんどさ」もしくは「自分のできなさ」をその後所属した劇団などで体験したり実感したに違いない。そして、今も続けている人はそれを受け入れ、頑張って乗り越えたか、もともと才能があった人たちであり、途中でくじけたり、前述の「こうした講座を渡り歩く人」は、自分と向き合えなかったか、才能に自信がもてないか、もしくはそこに立ち向かうことを暗にためらっている人たちなのである。

新スキルアップクラス開講にあたって

2012年6月2日


 先日東京の劇団の京都公演を見て、役者のうまさに感心しました。
私が信頼をおく演出家も、別の東京の劇団の公演を見て、やはり役者の質の高さに驚いていました。ちなみに、両劇団とも若手(30代が主体となった)劇団で、小劇場を中心に活動している劇団です。私には、そうした役者さん達は「うまい」というより「わかっている」という感じがします。


さて、劇研アクターズラボでは役者と優秀な演出家との出会いを生もうと、いくつものワークショップオーディションを行なって来ました。ところが、複数の演出家から(非常に悔しいことですが)「使いたい役者が一人もいない」と言われてしまいました。「彼らの劇団の役者とそう変わらない実力の俳優なのに・・・」とも思いつつ、それよりずっといい俳優でなければ、「一緒にやりたい」と思えないのも当然です。有望な演出家にいい俳優を紹介したい、ワークショップなど指導の仕事も俳優に斡旋したい、しかし・・・求められるに足るものがないのは現実です。


 どうすれば「わかっている」俳優を増やせるのか。どうすれば、「わかっている俳優」になれるのか。関西で俳優教育を行なう場がどんどん細ってゆくなか、劇研アクターズラボはまだ挑戦を続けようとしています。今回、劇研アクターズラボの原点であった「スキルアップクラス」再開にあたって、私達は過去7年間の方法では未来は描けないことを認め、根本的な所から検証しなおすことにしました。まず、指導者と「受講する人が何を求めているのか」「それに応えるにはどうすべきか」という問題を共有し、指導方法を検証し勉強しなおすことにしました。講座内容だけでなく、身につけた技術や教養がどう活かせるのか、「その後」の仕事や活躍の具体像も併せて考え具現化していく事業にも力を入れることにしました。作品創作の現場のみならず、教育の現場でも、高齢者福祉の現場でもビジネスの現場ですら、演劇や演技の力が活かせる可能性を感じています。しかし、多くの役者さんにとって、そうした仕事を得るためにはどうしたらいいのかわからないのが現状です。能力があれば誰でもチャンスが得られるような、開かれた手段とそれを知るための情報を誰でも得られるようにすることも大切です。また、求められる「能力」がどの程度のものか(どの程度のスキルが無いといけないのか)もはっきりさせなければなりません。それらが曖昧なために、「上手くなりたい!」「演技を活かしたい!」「演技で飯を喰っていきたい!」と思っていても、目標を設定できなかったのです。そもそも、役者の層も薄いし、仕事は少ないし、成功事例や、あこがれとなる「わかっている役者」も東京に比べて圧倒的に少ないのですから、意識も意欲も低下しがちになるのは当然です。その中でせめて視線は下げず、高い志と目標をもって、この環境の中でできる工夫をしながら人材育成環境の向上を図っていきたいと考えています。
 つまり、今から始まるスキルアップクラスは、指導者も、受講者も、制作側も一緒になって演技の力を育み、そしてそれを活かす道を開拓するプロジェクトなのです。


 「東京の俳優にまけない力をつけたい」「演技はすばらしいものだということを実感したい」、「そのすばらしさを社会にもわかってもらいたい」そんな願いを持つ皆さんの参加を待っています。

地域と俳優の関わりについて

2010年1月15日


 地域文化を活性化し、文化環境を充実させるためには、その地域文化を牽引するような人材が不可欠です。そうした専門的な人材(才能)が全国的、もしくは世界的な活躍をし、かつ地元に根付いてこそ地域住民への恩恵も現実のものになると思います。
 役者がいかに自立を勝ち得るかを考える時、(私達の場合は)京都という町に根をおいている以上、地域性は切っても切れない宿命です。ラボでは、自立すべき人材が地域のために働く事で、俳優自らの自立に役立てると同時に、地域の状況をよりよくしたいと願っています。「自立の前提」は専門家(プロ)たる実力を養う事。そして「自立の実現」は職業として食べてゆける環境の整備だと思います。それはそれぞれ別々のことではなく、相互に関係しあって循環しながら整ってゆくものだと思います。ですから、「育成」と「環境整備」は同時進行させなければ機能しないと考えています。
 その中で、なんといっても大きな課題は「経済的自立」なのですが、それは、そうなれる環境が整ってゆくことがすなわち、地域文化の活性化にほかなりません。そして「プロとして活躍する専門家」が現状よりも増えてゆく事が、その活動をさらに推進する力になってくれると思っています。
 劇研アクターズラボは多くのプロを生み出すことを目指していますが、そのためには「プロとして生きてゆける状況の実現」が急務であり、まずはそうした環境整備に貢献する事業を近い将来スタートさせたいと考えています。


さて、そのような目標にたって、さて、「専門家(プロ)」たるひとが、どう生計をたててゆくかを想像してみます。
普通に想像できるのは、東京に行き大手のプロダルションと契約しテレビドラマや映画、商業演劇などに出演する、というものです。京都にとどまり活動している「”プロ”の役者さん」の実情は割と見聞きしているので、京都にいて成立する「プロ」たるイメージはその範囲を出ません。つまり、「演劇の仕事もしているが、結構アルバイトもしている」イメージです。この想像のままであるなら、私達が育成を試みるようとする「専門家(プロ)」たる人はたぶん他都市(主に東京)に出てゆき(たぶん出世という受け止められ方で)、よほどの事が無い限り地域のためには戻っては来てくれそうにもありません。もちろんそうした成功の図式を否定するつもりはありません。そうした人がテレビドラマや東京などの有名な舞台に出演し活躍してくれることは大変すばらしいことであり、そうした人材の背中を少しでも後押しできた事だけでも私達の大きな実績になるはずです。しかし、今後私達がより力を入れて取り組みたいと思うのは、地元にとどまり「一流の専門家」として優れた活動を地元拠点に、国内外で展開してくれる人材の育成です。私達の事業が才能流出を助けるだけになってしまっては、地元の文化には逆効果ともいえます。地元での成功のイメージがつかめないのであれば、新たな成功の図式を作って行かなければなりません。
 もちろん現状は厳しく、すぐにできるとは思っていません。しかし、まずはできる所から問題を解きほぐし、解決に向けてちょっとずつでも手を打っていこうと考えています。とにかく行動を起こせば、刺激を受けた才能が自分達の手で「成功のありよう」を見せてくれるかもしれませんから。


 さて、「経済的自立支援は必要」という仮定にたって、誰をどのように支援するかということを考えてみたいと思います。それが演劇に関係のない一般の人にとっても説得力を持ち得るのであれば、なるほど支援は必要だということになるし、そうでないならばあえて支援の必要ないということになるに違いありません。ということで、始めにその「対象となる誰か」を考え、それからその人達にどのような支援が必要か考えることにします。
 支援を受けるべき人はきっとこのような人たちです。「プロとして相応の実力、キャリアがある人」「地元を活動拠点にし、今後も地元を拠点に活動してゆこうとする人」でかつ「実力相応の経済的評価 が得られていない人」
 ようするに、そうした人が演劇で生活できないのは、環境や仕組みに問題がある可能性がある。まずはそのあたりの問題点を明らかにして、それが環境のせいであるならば、つぎにそこをどうにかして、そうした人が相応の評価を受けられるようもってゆきたい、というのが私達の目指す環境整備ということになりそうです。ということで、まずはそうした人は誰?を明らかにするにあたっての条件を具体的に考えてみたいとおもいます。
 もちろん実力の世界ですから、才能があれば役者としての実績やキャリアの無い子役や美形のアイドルでもプロとしてOKということになるのですが、私達が想定する地域文化に貢献する人材ということを考えると、行って来た活動の質や人間性なども考慮に入れなければなりません。そうなると基準の設定は複雑化しそうでなかなか難しいのですが、演技技術やキャリアから少し離れて、世の中の常識にあてはめて考えたとき、ある指針を思いつきました。
 それは時間と質(活動の内容)です。
 先日あるブログにも書いた事ですが、演劇に関わった時間が1万時間以上か未満かで線を引き、そこを基準にどのような質でその1万時間を過ごしたかで対象となる人を絞り込んでみたいと思います。

役者の自立支援について

2010年1月4日


 私は小劇場で働いているので、京都(関西)で活動している若手(概ね40代以下)の俳優さん達と多く接する機会があります。小劇場の主な使命は「育成」だと思っているので、そうした役者さんが自立できる支援事業を以前から行っているのですが、「自立」の最大の壁は「経済的自立」です。つまりプロの役者として喰ってゆく事がなかなかできないのです。とはいえ嘆いてばかりいても始まらないので、NPO劇研では「経済的自立」を支援する具体的な事業を立ち上げたいと思っているのですが、それにあたって、だれを支援するの?ということについて考えている事をまず述べたいと思います。
 どのような役者さんを支援するのかを考えるにあたって、世の中の「プロ」と呼ばれる人が、だいたいどれくらい「修行」しているのかを、考えてみました。修行とは、たとえば職人など技術で飯を喰っている人が一人前になるまでにかかる時間ということで、(多くの仕事は修行中も給料がでますが、給料の有無はさておき)一人前としてやって行けるようになるまでに要する時間ということです。それでそれを実際に人に聞いたり、自分の経験等に当てはめてみてある数字にぶつかりました。それは「1万時間」です。英会話でも、楽器の演奏でも、身に付くのに要する時間は1万時間と聞いたことがあります。いろいろ見たり聞いたりすればするほど、どの仕事でも「1万時間」の修行も経ないで一人前になるのはほぼ不可能だと感じています。これはもちろんプロスポーツ選手や能楽師、ミュージシャンといった芸能のプロにも当てはまるんじゃないかと思います。つまり20才前後でプロになるような人でも、幼少の頃から練習して来ているので、1万時間の「修行」は積んでいるということです。
さて、役者はどうでしょう?
 例えば小劇場出身の役者さんで、1万時間の練習量(公演に向けた練習や、養成所のレッスン、演劇部の練習等あくまで公的な練習の総時間数。公演の舞台に立っている時間も含む)を達成している役者さんがどれくらいいるでしょうか?1公演で小劇場では平均的な練習時間である120時間練習する劇団が、年4回公演して21年かかる計算です。
18才で演劇を始めて、年4回づつ21年38才での達成ですが、どうでしょう?
 この数字はなかなか説得力があり、まっとうだと思っています。つまり、世の中で(技術や経験を元にした仕事で)1万時間の修行もしていない人が「プロ」になれることは非常に希か、まずほとんどないのです。ですから、1万時間も修行していない「役者」さんが演技で喰えないのはむしろ当たり前と考えるのが自然です。(1万時間を経ていないと出演料はもらってはいけないという事では、もちろんありません)
 ただし付け加えるなら、もうひとつ重要なのはこの1万時間はあくまでも必要条件で、「プロ」になるための十分条件ではありません。つまり、才能(素養)がなければ仮に1万時間を経ていてもプロになれない人もいるという事です。
 とはいえ、まずは必要条件である1万時間をもとに、役者さんでいろいろシュミレーションしてみました。高校時代からプロの劇団の養成所に入り、その後実技の充実した演劇系の大学やフルタイムの養成所を経て劇団の準座員になったような人なら、28才前後で条件は満たすと思います。その中で仮に若くして才能を認められ20才ぐらいで多くの出演機会に恵まれれば、それこそ20代前半で条件を満たす事も十分に考えられます。
 しかし、高校を卒業してから演劇を始めた場合が多い小劇場の役者さんにとっては、ちょっと違うシュミレーションになりそうです。仮に18才から始めて、28才でプロの役者で喰ってゆくと仮定します。つまり10年間で必要条件である1万時間を超えるためには年平均1000時間を要します。自由が利く学生の間なら年1000時間を確保するのはそう困難な事ではないかもしれませんが、卒業後アルバイト生活の中では、なかなか困難そうです。1年は約52週ですから、1000時間のためには毎週約19時間が必要です。つまり、仮に大学在学中の4年間はなんとかなったとしても、その後働きながら週5日4時間のペースを6年間維持することが必要なわけです。つまり、何らかの支援(出演料が出るとか、食費、交通費が出る、親等支援者からの仕送りがある)か職業劇団の座員になり、年間100ステージこなすといった状況でないと年間1000時間以上を10年間にわたって維持する事は事実上困難だと思われます。
 この考え方を基に「役者の自立支援」を考えるとき、支援のあり方は2つのパターンに分けられそうです。一つは1万時間に満たないいわゆる「修行期」の人の中で、「才能がある人」の支援もしくは「才能を発掘、育成する」支援。そして、もう一つは若くして必要条件をを満たすような、機会に恵まれた優秀な俳優さんが、その演技技術で生活できるようにするための支援です。つまり、18才で演劇を始めた人が、30才までに1万時間を達成するためには、それ相応の生活を送り、同時に数多くの公演機会に恵まれたあかしです。そうした人が「喰えない」のは「環境が悪い」可能性があるから、そこを改善して行きましょう。ということなのです。
 ということで今までほとんど手をつけられずにいた、上記自立支援の後半の部分において、これから具体的な支援策を行ってゆこうとしている訳ですが、ちなみに私が支援すべき人達と考えるのは、(親から継続的に支援を受けられたなどの特殊な事情無く、十分な活動実績を維持しながら)30歳までに1万時間を超えた人(もしくは演劇を始めて12年未満で1万時間を超えた人)で、演技の技能を使っての経済的自立ができていない45才までの人。ということになります。
いかがでしょうか?

役者の自立について

2008年5月23日


 演技者を表す言葉には「俳優」と「役者」があって、はてさて「役者」と「俳優」はどう違うのかということですが、小劇場の演技者の方は割と「役者」と名乗る方が多いと思われますが(あくまで印象です)、新劇やプロダクションに所属している方は「俳優」と名乗る方が多いかもしれません。 だいぶ以前、私が役者をしていた頃住んでいた安アパートで小火(ぼや)があり、通報者であった私は消防の方にいろいろ聞かれたのですが、ほろ酔いだった私は、何を血迷ったか職業を「俳優」と答えて職業欄に「廃油業」と書かれた苦い経験があります。知り合いの役者さんも不動産屋で職業欄に「俳優」と書いたらめちゃめちゃいい家(高額な)を紹介されてなんぎしたと話しておられました。「役者」と「俳優」の間には大きな溝がありそうです。
 ところで、私が出会った美術家や陶芸家は有名無名ありますが、どなたも「アーティスト」と呼ぶにふさわしい感じがしました。若手であっても「アーティスト」であろうとしていました。私が出会ったいい役者さんにもやっぱりアーティストのニオイがします。それは、もちろん格好がそれらしいとかそういうことではなくて、演技することに対してしっかりした考えを持っていて、社会人としても自立しています。だから私は自立した役者のイメージを勝手に「アーティスト」と呼べる人だと思い描いています。卓越した演技能力に加え、しっかりした考えや哲学、表現へのこだわりやプライドをもって演出家や劇作家とも対等に渡り合える人。そんなイメージです。もしかするとそういう自覚のある人が「俳優」と名乗るのかもしれません。
 ところで、おそらくは小劇場に限っての事情ですが「劇作家や演出家に比べて役者の評価が低い」という話しをたびたび聞きます。劇団が評価されても、脚光を浴びて仕事が来るのは劇作家や演出家だという役者の愚痴も聞きます。私も役者をしていた頃、演出家の要求を聞いてそれに応えようと頑張るのはけっこうしんどかったので、そのころは同じように思っていました。今考えると実力的には半人前なので、評価されなくて当然なのですが、演出家の思いに応えるべく頑張る上に、制作やら舞台装置作りやらの雑用もこなしていたので「劇団の為に俺だって頑張ってるんや!もっと尊重せんかい!」みたいな不満があったのです。今でも、そうして頑張っている役者さんの評価が低いのは残念でなりません。頑張るだけではもちろんダメなのですが、キャラクターがあるというだけで重宝され、雑用などとも無縁な一部の役者がいるという現実を前にすると、理不尽さを感じるのです。
 さて、それはそうなのですが、演技的実力を冷静に見た場合、初心者対象の演劇ワークショップを長年してきてわかったのですが、20歳前後から芝居を始め、例えば5~6年小劇場演劇で経験を積んだとしても、その蓄積は、素人とほとんど差がありません。特に「等身大」の人物を描く作品では、キャラクターがぴたりと合えば、玄人顔負けの演技が初心者にもできるのです。
 そうなると、演技のプロってなに?技術は本当に必要なの?
となるわけですが、ここが悩むべきところのように思います。結論から言うと技術は必要です。しかし、それ以前にまずは「役者として生きる(生きてみる)」ことが大事なのではないかと思っています。役者はしているけれど、普段は派遣の仕事で働いていて、自分のアイデンティティーは時と場合によって、役者だったり会社員だったり・・・。という若い役者さんは結構多いと思いますが、「自分は今から3年間は誰がなんと言おうが役者と名乗って生きる!名刺は俳優と書いたものしか使わない」みたいにしてみた方が、その後の人生にとって有益なのではないかと思ったりします。役者というポジションは現場では原則的に演出家の指示には従う必要があるので、ともすると盲目で従属的になりがちです。観客に自分をさらしてはいるものの、心理的には直接「観客と対峙する」という感覚は演出家に比べて弱いのかもしれません。「難しいことは演出家が考えてくれる・・・」みたいな感覚です。しかし、自立の為にはたとえ劇団に所属していても、自分が直接観客ひいては社会とどう関わってゆくのか、自分の演技が果たせる意義や意味を考えてゆかねばなりません。冷静に自分をみる客観性がないと、そうしたことはかなわないのですが、そういう知性を得ること(そういう努力をすること)は多くの人にとっては以外に難しいことのようです。ある覚悟みたいなことがないと、なかなかそうした智慧は養われないのです。役者の作業は案外孤独な作業だと思います。演技することは、たいがいの場合本人が楽しいからするわけですが、いい演技者は他人を楽しませることができる人です。いい演技者である為には、人を楽しませる為にときどき自分は楽しくないことをしなければなりません。むしろ辛いこともあるでしょう。つまり、役者としての結果に責任感を持ってしっかり向かい合った人だけが、そうした智慧を得るのだと思うのです。
 私は演劇(演技)には今の世の中に大切な、求められる可能性がたくさんあると思っています。そして映像の俳優よりも舞台俳優の方が高い身体性が求められる分、(そうした技術を習得している分)ーもちろん本物の「俳優」に限りますが―今後より活躍する可能性が高いと思っています。しかし、舞台で演技する人の意識が単なる芸能界へのあこがれや、テレビに出る人気者の代替感覚では、重要な価値が失われてしまうと心配しています。特に表現者には舞台芸術は映像とは違うという認識が大切で、むしろ積極的に映像に対する舞台芸術の優位性をアピールし、どのようにその価値を高めるかを考えるべきではないかとすら思っています。ゲームの焼き回しや、いつかみた映画やアニメのような作品に近頃よく出会うのですが、そういうものを見るとがっかりします。そうしたものは、自分が身を削って創作したというよりは「ある評価を得た何か」にこびている気がしてならないのです。余談ですが、先日まさにそのような作品を作っている人気劇団の作品をみて、それにコメントを書かねばならず、難儀しました。
 「役者」で生きようとしている人は、自分が成功する為に「これからのびる」劇団や演出家、劇作家などといい関係を築くべきです。それには、作品を見る目が必要不可欠なわけです。してはならないことは「盲目的に今人気がある劇団に媚を売る」ことです。お客さんが何千人も入っているからといってその劇団がこれからもがんがん活躍するわけではありません。今は「なんじゃこりゃ?」という作品を作っていて、お客さんもまばらな劇団が将来もダメかというと必ずしもそうでもないのです。ポイントは「この劇団は身を削って勝負しているか」を判断することだと思っています。一応誤解がないように補足すると、むちゃむちゃ練習している劇団だからいいとか、その逆に劇団の体制がぐだぐだだとだめとか、はたまた軍隊のように厳しく、やけどするぐらいに熱いからいけるんじゃないかとか、そういったチームの雰囲気や個性のことではなく、また、宣伝が上手とか、主宰者がものすごく演劇に関して知識や見識があるといったことでもなく、本質的な作品性そのものからそれを判断することが大事なのです。
 先ほども書きましたが、表現者がそうした思考を働かせるためには、当事者意識を持つ必要があります。しかし、そうした意識は当事者になってみないとわからないのかもしれません。自分を変えてゆきたいと思う人は、ぜひ自分で公演を企画したり、じぶんの演技の価値を積極的に語ったり、アピールしてみてはいかがでしょう。その行為に対する周りの反応こそが自分の力そのものであり、それを感じて初めて当事者たりえたのだと思うのです。
 とはいえ、経験も浅い役者さんはそれ以前に何をどう始めればいいかわからないことでしょう。えらそうにこんなことを書いている私も、結局今もどうしたらいいのか悩んでいます。私は途中から役者から企画・制作にポジションチェンジしたわけですが、10数年前に「役者をすること」や「演技について」悩んだことは、その後の私の企画の大きな糧になりました。

俳優自立へのささやかな挑戦

2009年2月12日


 京都に住んで、現代劇の俳優で生活を立てるのはたいへん難しい事です。京都には時代劇の撮影所がありますので、時代劇の俳優さんはそれで生活ができたりしますが、現代劇の俳優さんはお金になる仕事がほとんどないので、多くが別に仕事をもったり、アルバイトをしたりしている現状です。
 しかし、京都には認められた現代劇の作家や演出家もいて、そうした方々の作品に必要とされる俳優のニーズがあるのもまた事実です。この『ラボ』は、俳優のスキルを上げる事で、そうした作品の向上に貢献し、同時に作品が売れる事で俳優に出演料などの目に見えるメリットが還元される事を願っています。そうすることで、技術を持った俳優であれば関わりたい作品で収入や評価を得て、そして自立できるという「希望」を作り出したいと思っています。
 人頼みではなく,自らもということで、アトリエ劇研が主催するプロデュース公演では、できるだけ出演料を支払いすこしでも俳優活動の支援になればと考えています。それが適正かどうかはわかりませんが、まずはやらない事には変わらないという思いで、無理を承知で行っています。ですので、そうした成果をぜひ見ていただきたいのです。京都の中ではいい役者さんを選んでいるつもりですが、他の都市ではどうなのか?もちろん「この程度の俳優にギャラを払うのはいかがなものか」という声もありましょう。逆に「もっと支援してゆくべきだ」という意見もあるかもしれません。もし「自分の方がいい役者だ」と思われる方はぜひオーディションにチャレンジしていただければ(作品も良くなるし)大歓迎です。こうしたことが環境改善に有効にはたらけばいいと願っています。
 ところで、京都では技術スタッフに比べて、技術のある俳優さんですら、あまりにも条件が恵まれていないと思っています。しかし、それはそれをあまりに口にしてこなかった俳優にも問題があるように思います。
 スタッフはキャリア3年足らずの若手でも「プロ」意識があり、(それだけ仕事もあるということですが)小劇団からでもギャラを取るし、その要求もしますが、俳優は残念ながら「出してもらえるだけでありがとう」みたいなことになっています。(俳優ではキャリア3年ぐらいでは到底ギャラはもらえないのですが)10年以上頑張っていて、実績もある人ですら同じ扱いでは、希望も失せてしまいます。
 もし自信があるなら(自分が出演する事で確実に観客も増えるし、作品の完成度も上がりますよということであれば)もっとそのことをアピールしてもいいのではないかと思います。そのほうが、ある緊張感が生まれて演劇状況にもいい影響を与えるのではないでしょうか。(プロデューサーとしてはしんどいことにはなりますが・・・)

演技の価値について

2008年1月30日


 落語ブームが続いているそうです。だからというわけではないのですが、たまたまある落語の公演を拝見しました。客席の約半数近くが落語を生で初めて見るお客さんということで、小さい子供からご高齢の方々まで実に多彩な客層でした。手品やパントマイム、漫談といった前座があって、落語となったのですが、爆笑、爆笑。大いに盛り上がったのです。話芸のすごさにあらためて感心しました。 30代半ばのプロの噺家さんで、端で見るとキャリアもある方だと思うのですが、自ら武者修行と称して全国をバイクで回り、時には数人のお客さんの前でも芸を披露しているそうです。私の周りでも役者さんが落語をしたりしていて「けっこう上手いものだなあ」と感心していたのですが、それを見たとき「やっぱりプロは違う!」と感じました。小劇場を中心に活動していて、なおかつ頑張っている若い役者さんが、関西(京都)にいて役者で食べていけるのだろうか?という不安(もしくは役者の環境に対する疑問)をわりと耳にしますが、こうした現実を目の当たりにすると、まず技術や能力(もしくは才能)について、もう少し考える必要があるのではと感じてしまいます。もちろん「そんなことはない」との反論もありましょうが、もしよければそんな方やこれから役者で頑張りたいと思っておられる方は、落語のみならずその道の「プロ」の公演を見てそれをはかりにしてはいかがでしょう。
 さて、プロの技術ということを普通に考えてみるなら、散髪屋さんでも、料理人でも、職人さんでもそれでまっとうに生計をたてておられる人は、当然ながら何年かの修行を経てプロになっていて、毎日、毎日それをして暮らしているわけですから、技術が卓越しているのは当たり前なわけです。逆に言えばそうでないとプロにはなれないでしょう。ところが、役者の技術、またはプロとしての役者の自立ということを考えたとき、そのおかれた立場の特殊性みたいなものを感じてしまいます。 そのあたりがややこしいので、役者さんは何をどうすればいいのか戸惑うのではないかと思うのです。つまり「役者」というのはプロだろうが、素人だろうが舞台に立ってしまえばそれはもう役者ですので、客席から見ればプロもアマも関係ありません。キャリア何十年のベテランとほとんど初舞台の子役が一緒に舞台立つことだってあり得るわけです。しかもそんな子役が受けたりすると、技術って何?みたいなことになるのです。しかもアマチュアでも入場料は取りますし、ほとんど経験が無い人が大物演出家の目に留まり、大活躍したりするので、まあいろいろとややこしいというわけです。
 実はそうしたモヤモヤ感は1994年に初心者対象の演劇ワークショップを始めた時から思っていました。はじめて手がけた初心者対象の演劇ワークショップはそうしたことを考える契機になりました。そこにはたまたまいい才能が参加していて、結果的にそこから何人かがプロの役者になったわけですが、申し込んで来た時には本当に初心者でしたので、発表公演に関しても実はあまり期待していませんでした。ところが、いざやってみるとできの良さに驚かされました。もちろん思い入れがあるので、ひいき目は否めませんが、それを割り引いても優れた部分があったのです。当時役者をしていた私には、自分たちが日頃していることは何だったのか。自分と彼らの間にはほとんど差がない、という事実を突きつけられた気がしました。もちろん彼らにそれなりの才能があったのは確かです。しかし、それと同時に素人を上手くコントロールして作品に仕上げる演出家やスタッフの存在があれば、仮に素人を集めて演劇をしてもいい作品を作りうるということを感じたのです。

生活と演劇

2007年5月21日


 劇研アクターズラボは劇団などに所属して演劇を親しむことが難しい人でも参加できるように努めています。
 公演を行うクラスでも、小さなお子さんを持つお母さんが受講しています。
時々お子さんを連れて一緒に会場に来られるのですが、講師もスタッフも可能な限りそれを普通に受入れています。子供さんにとっては稽古を見ているのは退屈なことですので、そんな時はスタッフが一緒に遊んだり、宿題を一緒にしたりします。一緒にいても問題の無い内容のときは、見学していたりします。講師の方も他の受講生もよく理解してくださっていて、小さな見学者を煙たがること無く、普段通り内容を進行してくださっています。
 今のところ「子供を連れてくるなんて不謹慎だ」という声はありません。子供がいるお母さんも、育児をちょっと忘れてリフレッシュしていただけるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。
 ラボでは生活と演劇ということを考えています。生活に演劇がうまいこと絡んで生活を豊かにできないかということです。たいがい、演劇している人は生活と演劇の折り合いをつけるのに四苦八苦しています。ラボのように、ニーズに合わせたカリキュラムを組めばその折り合いも上手く付けられるのでは、と考えたりしています。例えば、小さな子供と親が一緒に楽しめる機会としてラボが機能できたらとか・・・。そんな時は、互いに参加しやすい週末のクラスにして・・・。とか。今は残念ながら平日の夜のクラスしかありませんが、将来もしそうした希望があれば本当に週末昼間のクラスなどを考えたいと思っているのです。(*2010年から実現しました)

ワークショップオーディションについて

2008年1月24日


 役者の自立支援にまつわる具体的な方法の一つが、昨年の春から約半年おきに実施している、「ワークショップオーディション」です。オーディションというと、主催者が一方的に役者を選ぶという意味合いが強いのですが、このワークショップオーディションはあくまで、演出家と役者が対等の立場で出会うことを基本的な立ち位置としています。演出家が自分の求める役者さんをただ選ぶというだけではなく、ワークショップを通じて演出家がどういう作品を志向し、どのような創作をおこなってゆくのかを参加した役者は知ることができます。演出家が「この役者さんと一緒にやりたい。」と思っても役者さんのほうが、「合わない」と思えばお断りすることが可能な訳です。
このオーディションに来て頂く演出家はできるだけ優れた方をお呼びしたいと思っています。また、出演対象となる公演はできるだけ出演料が支払われる公演、もしくは複数箇所での上演が予定されていたり、賞の獲得や専門家が多く足を運ぶことが見込まれるなど公的な評価が期待される企画を対象にしたいと考えています。つまりそうした公演に参加することで、役者としてのキャリアアップにつなげたいということです。
 ちなみに、このワークショップオーディションは劇研アクターズラボ受講生以外にも門を開いています。こうしたことを通じて、役者としてのアイデンティティー獲得に寄与したいというのが、この事業の趣旨なのです。

日常性について

2007年7月7日


 「演劇(演技)を学ぶ」というと、「とにかくオモロいことをができるようにする」または、「人ができないような技を学ぶ」とか、なかには「人前で恥ずかしいことを堂々とできるようにする」のようなイメージを持つ人がいそうです。ある大学の演劇同好会の話を聞いたら「どれだけ恥ずかしいことができるか自慢」みたいなことが本当にされていて、興味深いものがありました。
 もちろん、演劇では日常にありえないことを描く場合も多いので、非日常的な動きや仕草「そんなばかな!」というシチュエーションを、あたかも普通であるかのように演じきる技量が必要な場合もあります。あっと驚くアクロバティックな表現、かっこいいダンスや歌、血管が切れそうなテンション、燃え上がらんばかりの熱演、過激な性描写や、目をそむけたくなるようなお下劣な表現さえも演劇の魅力の一つといえます。刺激(「非日常」とここではくくってみます)を魅力と感じる10代、20代の若者がそうした方向に傾倒するのも納得できます。それも大切なことだと尊重しつつ、劇研アクターズラボでは学ぶべき基本をそうした非日常ではなく、日常性におきたいと考えています。そういうと、華やかなフィクションの世界から、急に地味であじけない日常に視点を下げた感じで、興ざめの方もいらっしゃいましょう。しかし、私はその選択が、演技をする上でも、自分を磨く上でも、充実した日々を送る上でも、大げさにいうなら文化の体現者となるためにも、現実的で、実用的で、演劇の価値すら高めるものだと考えています。
 さて、演劇をはじめ、テレビ、映画、ゲーム、漫画などエンターテインメントには先にも述べましたが、非日常があふれています。人の興味を引いたり、刺激を与えたり、贅沢な気分にさせたり、高揚させたり、笑いを取ったり・・・そうしたことを成立させるためには日常ではありえないことや、信じられないリアクションや、予想以上のなにかをするのが常套なのでしょう。演技者としては、もちろんそれが求められればできることは大切です。ですが、まずそれ以前に日常を普通に生きる人間のありようや、自分自身のありようを見つめ、それを基準に演技を考えることがより大切だと考えています。人を感動させたり、共感を生んだり、長く人を引きつけ続ける作品の共通項は、そこに人間(人生、リアリティーと言い換えられるかもしれません)が感じられるからではないでしょうか。ショービジネスに人材を提供しようとする養成所でも日常的な演技を基本に据えているところが多いのは(私が知る限りですが)、きらびやかなショービジネスの舞台でも同じだということだと思います。(リアリズムの演技論がいいとかそうした技術のことが言いたいのではないのです)。登場人物がとても機械的で記号的な前衛劇や、はたまた派手なアクションを売りにするエンターテインメント作品であっても、優れた作品(いわゆる普遍性をもって息長く再演が繰り返されるような作品)の深部にはやっぱり人間の生(人間の謎も含めて)が息づいていると思うのです。(*儀式、儀礼的な芸能は除きます)ですから、まずは「人はどう生きているか」みたいな基本的なことを大切にしたいし、そもそも基本とは何かを考える際に日常とかけ離れた何かではなく、日常にあることを大切にしたいと思っているのです。
 話はそれますが、お能の稽古の際に「お能にあることはすべて日常にある、日常にないことはお能には無い」ということを聞きました。私にはお能はすべて非日常に見えていましたので、それは腑に落ちないことでした。日常ではあんなにゆっくり動かないし、低い声でうならないし、幽霊がでてくることもない。まさに文化財のごとく昔のものがそのまま保存されてきた、そのように思っていたのです。ところが、お稽古をするうちに、すこしその謎が解けたように感じたのです。お能は室町時代以来、実はだいぶ変化をとげて現在に至っています。猿楽(さるがく)と呼ばれた初期のお能には、アクロバットの要素があったとききます。想像するに現在よりエンターテインメント色が強く、観客(知識のない大衆)にも見やすかったに違いありません。それがなぜ現在のような形になったかは、これも想像するに、武家等の庇護を受ける為に、多様な要素(禅の思想や、茶道や武道に通じる考え方)を取り入れたからではないでしょうか。つまり、初期には「みせもの」の要素が強かったものが、その後のいろいろな環境変化の中で、茶道や武道の影響を受け、芸術的、文化的な厚みを増し現在の形になったのです。その厚みとは、例えばそれを学び、たしなむという面においても価値を持つということです。それは今で言う「習いごと」というよりはもっと重いものだと考えられます。つまり「〜道(どう)」という考え方に共通するように、生き様(ライフスタイル)の提案がそこではなされていて、その稽古を通じてそうした生き方の実践がなされるようにできているのです。
 お能の日常性について話を戻すと、和服を着てお稽古をしてみてわかったことですが、上半身を固定させるお能独特の身体性は、和服の着崩れを防ぐ為だと思います。後見人が細かに演者の服の乱れを直すのは、後見人が演技中に後ろで動くことよりも、演技者の服がきちんとしていることが大事な価値基準だからだと思われます。西洋化が進んだ現代生活では着くずれを気にする感覚が、昔のそれと違う気がします。私も洋服で育った一人ですので、和服の着くずれを気にする感覚がリアル(日常的なもの)ではありません。それよりも、テレビや映画など映像文化に慣れた私にとっては、演技者の後ろでなにするともなく座っている後見人の仕草が気になってしまいます。何をいっているのかよくわからない言葉と単調な音楽にすぐさま眠気が襲ってきます。現代の日常性を背負って「エンターテインメント」の感覚でお能を見ればそうなるのはしかたないことかもしれません。もし私が、日本家屋で和服を着て生活し、茶道や華道などをたしなむ生活をしていたら、それらはもう少しリアルなものでしょう。洋服に比べ乱れやすい和服をきちんと着ることを美徳とする日常に暮らしていたら、舞台上の役者の服のささいな乱れもきっと気になるでしょうし、すり足という能独特の歩行法にしても、武道をたしなみ、建物の中をどたどたと歩かない生活していた過去の日本人にとっては、それほど日常と離れた動きではなかったはずです。お能は江戸時代の日常生活(武家のものでしょうが)に根ざして、それをより豊かにする為の総合芸術行為と考えられます。昔と今の生活習慣の差を理解し、同時にお能に込められた価値観や感覚を理解しようとしたら、その日常性が少し腑に落ちたのです。そして、その中に今の生活にも息づく価値観や考え方を感じることもできたのです。
 さて、現代演劇は主に見せ物(ショー)としての切り口で語られています。舞台芸術の価値が「上演作品そのもの」への分析や批評、価値評価のみで計られることが主流です。お能の日常性について考えを巡らせていると、私にはお能の豊かさが見えてきました。「作品」という「点」ではなく、永続する行為(人生や生活になぞらえているのかもしれません)すなわち「線」としてそれが存在することの厚みです。同時にショーとしての切り口のみから、現代舞台芸術を判断することがはたして適切なことなのかとも考え始めました。映像全盛の時代の中で、だれでも気軽に世界中に情報を発信できる時代に、同じような土俵で「作品」そのものを競うよりも、舞台芸術の特徴である身体性に重きを置くならば、「行為としての価値」をもう一度見直してもいいのではないかと考えたのです。お能の考え方で私が共感するのは、「(あたりまえの)日常を豊かにする」という視点です。(これは茶道や禅の影響なのかもしれませんが)芸術とは本来生活を豊かにするもののはずです。そこには、豊かな生活とはなにか?ということも含めて、もちろん、いろいろな思想や哲学が存在してしかるべきですが、作品のみならず「その作品を作り上演する行為(過程)そのもの」がそうした思想を身体化する行為と考えるならば、作品の優劣同様、優れた「過程」だけが自然と生き残る気がします。「作品で人を楽しませる」という一点から演劇も映画もテレビも同じように切られて、しかも同じようなものがあふれかえっていて、「それは本当に生活を豊かにしているのか?」と考えてしまう昨今、我が国の伝統芸能には、あたりまえの日常を豊かにする意義のある要素(特に思想に裏付けされた行為としての要素)が息づいています。こうした価値をあらためて見つめてみることが、(それが失われつつある)今こそ大切になってきていると私は考えているのです。
 もちろん現代劇でも、優れた作品を創作し続けている俳優さんの身体には、深い思想や哲学、生き様のようなものが活きていると想像します。そうした人達の長年にわたる永続的な作業を通じてその身体におちた「何か」を見つめ、演技教育の中から細かくその内的な作業を解き明かしてゆくことが、演劇を豊かにするのみならず、現代生活をも豊かにする(できる)可能性を持っているように感じるのです。

ラボの目的に関して

2007年3月23日


 劇研アクターズラボには大きく2つの目的があります。一つは演劇をするという敷居を低くして、誰でもたのしく演劇や表現ができるようにすること。もう一つは、劇団等で活動する役者さんにために演技力アップの機会を提供し、「演技」にプライドが持てるよう、その自立をサポートすることです。
 ラボが最も重要と考える、スキルアップクラスのレッスンはどんな演劇(映像の演技)にも対応できるような「基礎訓練(基礎練習)」に特化しています。キャッチボールができなければ野球にならないないように、演技の基礎技術も演劇をする上でとても大切なのです。演技は台本が読めて、言葉が話せたら誰でもできると思われがちです。事実、いい演出家が「そのままの私」を上手に演出すれば、素人とは思えないお芝居ができることもあります。しかし、本当に舞台を豊かにし、価値ある演劇や演技を行ってゆくためには、確かな技術に基づいた演技が不可欠なのです。ひいては、そうした技術を身につけることで、演技者の価値を高めることができるのです。
 また、レッスンは生活も豊かにしてくれるに違いありません。演技は人を見つめ、自分を見つめることに通じます。それは性格や思想といった「心」に関する内面的な部分と、身体の癖や容姿、無意識の行動、身体能力といった「身体」そのものを共に見つめてゆくことです。また、他者との関係やその状態を考えてゆくことです。そうした体験はきっと真実を見つめる鋭い眼を養ったり、人と豊かな関係を築くこと、心に届く言葉を語ることなどに役立つはずです。大きな声を出したり、自分を解放させたり、身体を大きく動かしたりストレッチすることはストレスの解消に役立ちます。また、人前に立つことは人を美しくしてくれます。いいお芝居を創るためには、共に創る仲間との信頼関係が不可欠です。ですので、芝居づくりを通じて、仲のいい友人ができたりします。
 このように、劇研アクターズラボはレッスンを通じて、演劇の豊かさに貢献するのみならず、生活の豊かさや健康にも貢献したいと考えています。

社会性

2007年3月19日


 芸人(役者)さんには「やんちゃしてなんぼ」みたいな風潮があります。テレビで知る限り、芸能界の大物には伝説的な個性派がずらり・・・。たしかに、自分のペースで自由に生きている人を見ると、かっこ良く見えたり、数々の「武勇伝」を持っていたりすると魅力的に感じます。普段はちょっと変わっていて「不思議ちゃん」と呼ばれていても、舞台ではキラキラ輝く人は確かに存在します。
 そのせいかどうかはしりませんが、演劇している人(主に役者)の社会性の低さが気にかかります。もしかりに自分の「キャラクター」の為にそうしているとしても、「やんちゃ」を美徳と考えていたり、または自分の「いい加減さ」や「不真面目さ」「ダメさ」の肯定としてそういったことを引き合いに出すことは、自立には遠い未熟な人間のすることだと思います。また、学生が「モラトリアム」という都合のいい考え方のもとで、ある意味いいかげんでも許される学生生活に慣れてしまって、学生だけが参加するわけではない演劇の現場にもその甘さを持ち込んでくる。これも問題です。
 例えば自分が、とても「ずぼら(*関西弁かな?)」な性格であるとしましょう、誰とも関わらず一人ぼっちで生きてゆくなら問題ないでしょうが、社会や他者と一人前の人として関わっていこう(いきたい)とするとき、そうした性格の為に、人に迷惑をかけたり、責任を与えるべき対象として自分をみてもらえない場合があります。そうであるなら、それは改善しなければならないのです。とはいえ、持って生まれた性格や癖はそう簡単には直らない場合も多い。時には本当に病気(しょうがい)としてそうした能力が生まれつき欠如している場合もあるでしょう。あまりに辛い場合は、運命や社会をのろう場合もありましょう、時には、自分を許せなかったり、ほこさきを他人にむけたくもなりましょう。それでもそれを自分の問題としてむきあっていこうとする、そうした煩もんが、逆に他人への思いやりを生んだり、自分や他人を深く見つめる目を養ったりする気がしてなりません。そうであってこそ人間も、芸も磨かれるとわたしは思っています。
 社会性が低下している(そう思われる)昨今、逆に「ちゃんとする」ことを率先して行うことが、むしろ「かっこいい」と思うのです。ラボは「演技者の自立」を目的としています。自立の大きな条件は、他人から信頼されることです。それは人格的にも、演技そのものに対してもなのです。「役者をするということが軽蔑される対象ではなく、尊敬され、憧れられる対象になるべきなのです」遅刻したり、締めきりを遅れたり、無断欠席したり、ラボでも社会性を疑うようなことは頻繁にあります。先日もワークショップ申し込みの締め切りを遅れて「なんとかなりませんか」といって来た人がいました。いろいろ都合があるのはよくわかりますが、ちょっと考えれば、期間内に申し込んで、しかも不採用になった人がいるのに、特別扱いすることはできないぐらいの想像はつきそうなものです。
 「役者の自立」を引き合いに出しましたが、本当にそうなろうとすることは思うよりたぶん大変なことです。なぜなら、それは日々、毎日の問題だからです。自分は「役者だ(かっこ良くいうならアーティストだ)」というアイデンティティーを獲得する為には、毎日そう生きなければならないのです。一回公演が終わりました。それで、やれやれ、ということではなく、絶え間なく自分を見つめる自覚と結果を出すための行為、そして結果そのものがともに求められるのです。その自覚の一つとして、ぜひ「普通以上に」きちんとした社会性は持つべきだとおもいます。もちろん「社会性とは何か」という疑いも含めて。
 ところで、社会性はあるのだけれど、演技が面白くない人もいます。残念ながら、多少不真面目でも演技がおもしろい人が舞台では重宝されます。矛盾するようですが、だからこそ、そうした人は演技を磨いて、持って生まれた「キャラクター」を上回る必要があります。まじめさをプラスに考えて、ぜひ乗り越えて欲しいと思います。

役者の自立について

2007年2月8日


 劇研アクターズラボの大きな目的一つは「表現者(俳優)の自立」支援です。
さて、自立とは何かということですが、それは1つには経済的な自立。もう一つは精神的自立。ということです。
 経済的な自立には、演技力以外の要素も多くあるので、ちょっと置いておいて、まずは精神的(心構えとしての)自立に関して述べてみたいと思います。


 いろいろな方から「役者になりたいんですけど、東京にいかなきゃだめでしょうか」といった相談を受けます。その度に戸惑うのですが、もちろん東京の方がチャンスの数は多いことは誰でもわかる話しなので、それはそうするべきでしょう。でも、実際私が知る限り東京に行って成功した人は次のような3つのパターンです。1:才能が頭抜けている人(持って生まれたキャラクター、センスなどが素人目にも明らかな人)2:大学、専門学校、国立養成所など専門教育を行う機関や大手劇団などが運営するしっかりした養成所に入学した人。3:こちらで行っていた活動が認められるなどして、求められて東京に行った人。
 結局、才能と努力そして、それを認めてくれる人との出会いが結実すれば成功するということなのですが、よくある失敗パターンは「求められてもいないのに行ってしまう」という場合です。私は先のような質問を受けたとき、失敗パターンにならないようにだけアドバイスすることにしています。そのポイントは「自分(もしくは自分たち)を過大評価してやしないか」ということです。夢を持つことは大切です。しかし、京都ですら評価されていない人が、東京で認められる可能性はとても低いのです。ピアノが弾けないピアニストはいません。ところが演技のできない「役者」は沢山います。たいがいの場合「じぶんができていない」ことを自覚できていないのです。また、勉強しに行く場合でも、こちらで特に努力してこなかった人が、東京(海外)に行ったからといって努力する可能性もこれまたとても低いのです。一流の養成所に合格して行くならともかく。誰でも入れるような養成所に入るくらいなら京都にいても全くかわらりません。無名の小劇団に入団するのもキャリアとしては京都の劇団にいても同じです。むしろ生活費が安い京都にいる方が訓練に割ける時間も長く、創作環境も充実しているのです。たいがいの人は「(評価する人がいないだけで)自分はもしかすると1のパターンで、東京に行けばなんとかなるんじゃないだろうか」と思っています。でも1のパターンの人は初舞台、もしくはほとんど舞台経験の無いうちから別格な存在感を示す人のことを言います。私の経験からしても2、3回舞台を経験して、見ず知らずの複数の人から「よかったです」の声がかかったり、他の複数の劇団などから出演依頼がくるようでなければ、1のパターンはありえません。実際そういう人を何人か見てきましたが、初舞台というか、稽古を見た時ですら「この人は違うな」と思いました。ですから、そういう人は私に相談するまでもなく、劇団から声がかかったり、有名養成所、プロダクションなどに合格するなどして、さっさと未来が開けてゆきます。
 つまり、たいがいの人は「努力」で未来を切り開かなければならないのです。やっとここからが本題です。そのとき、どうすればいいか「役者志望」の多くの人は困ります。まずは出演できなければ話しにならないということで、劇団などに所属するわけです。劇団に入れば「公演」が待っています。「劇団員」として一生懸命雑務もこなし、「劇団の成功イコール自分の成功」を夢見るということになるのです。そのせいか、現代劇の俳優さんは自分の「芸」に対してのアイデンティティーより、どこに所属したか、どんな作品(高名な演出家の作品や、プロデュース公演など)に出演したかといったことにアイデンティティーを持つ傾向があります。しかし最後にはやっぱり「芸」の力がものをいうのです。優秀な演出家と対等に付き合えるには、演出家に信頼されるだけの「何か」がないと無理なのです。いい役者さんにはそれを応援しようという観客が必ずつくものです。逆によくないとせっせと劇団の仕事をしたところで、劇団内でも居場所が薄くなる。つまりたとえ劇団員であっても結局俳優である自分を自分できちんと見つめる必要があるということなのです。所属の無い役者さんは当たり前のことながら、「自分」を買ってくれる人がいるかどうかが問題な訳ですから、そのために自分で自分を磨くしかないのです。
 アクターズラボでも今年から演出家によるワークショップ(オーディション)を開催してゆきます。そのせいか、○○さんの公演にぜひ出たいんですがどうすればいいでしょうか?という質問も受けるようになりました。受かるかどうか聞く前に、まず自分がそのために何をしているか。普段から演技者としてどんな生き方をしているかを考えてみてください。一般の人とあまり変わらなかったり、何もしていなければ受かる確率は低いと言えます。あなたに才能があればとっくに声がかかっています。そうでないあなたはまずは何かをしてゆくしかないのです。あなたが初心者だとしたら、出演機会を得てゆくことでしょう。そして、演技について、舞台芸術について勉強し、よく考えることが大切です。いわずもがな、沢山の舞台を見て、自分はどんなものが好きかを考えることも不可欠です。例えば能楽師は若い人でも朝から晩まで毎日能楽漬けです。生き様が能楽師なのです。それくらい芸に打ち込むからこそ、芸が磨かれ「価値」を持つのです。ひいては芸に対しての誇りも生まれるのです。
 自立するということは、自分が「役者(アーティスト)」たりえているかをきちんと見つめ、そうなる(そうある)ためのあたりまえのことを、あたりまえのこととして行っているかということだと思います。評価は客観的なことです。自分を信じることは大切ですが、「わたしはいけてる」と思い込むことは間違っています。また、所属する劇団の座長など特定の人の評価だけを妄信することでもないのです。つねに客観的に「私」を見つめ(見つめざるを得ないような環境に身を置き)検証しなければならないのです。
 私は「東京に行かなければ成功しない」と考えるよりも、「きちんとやっていれば京都にいても認められる。」という考えをもつ方が健全だと思っています。「自分がどうありたいか」をイメージしそれに向かって地道な努力を繰り返すことが「こうすればなんとかなるんじゃないか」とおもって、むやみに高名な演出家の公演に飛びついたり、あてもなく東京に行ったり、やみくもに留学したりすることよりずっとずっと大切で、成功への近道なのだと思うのです。

謙虚さについて

2007年1月12日


 先日、小劇場中心に公演を行う劇団員である20代前半の役者たちと話しをしていた時「こんな作品じゃ、見にきてとはいえない・・・。」という話がでた。頼まれて客演に来ているのに、台本や演出や運営が悪いので、これでは作品が良くなりようがない、これじゃ人を呼ぶ気になれないという趣旨の発言で、これだけ聞くと納得できないこともないが、すこし稽古も見ていた私はそれを聞いて、心の中で「あなたの演技も言えたものじゃありませんよ」というツッコミをいれていた。
 また、別の機会だが「いつチョン・ヨンドゥさんのワークショップあるんですか?」と聞いてきた役者がいた。


チョン・ヨンドゥさんとは2006年の劇研演劇祭に招待した韓国のダンサーで、俳優も行うすばらしいアーティストだ。何がすごいか、それは見てもらえればわかるが、その身体、動きの美しさである。彼の動きは歩く、立つ、寝る、といった非常に単純な日常動作(いわば誰にでもできる)を、非常に緻密にキチンと行うことで、禅寺の美しい庭のような、純粋でシンプルかつ美しい表現を生んでいる。そのワークショップも非常にすばらしく、昨年それを見学して、ワークショップなのに感動してしまった。それを、若手の役者にも受けてもらえる機会をつくりたいと思い、このような機会があったら受けますか?と紹介したので彼がそう聞いて来たのだ。それだけ聞くとこれまた何の問題も無いが、何か引っかかってしまうのだ。とにかく「それ(ワークショップ)がいつあるか、教えてください」という言葉がなんというか、軽いのだ。「とりあえずそんなにいいならうけますわ」と聞こえる。チョン・ヨンドゥ氏がこの技術(身体)を獲得するのに、どれくらいの努力をしていると思っているのだろうか。受けたいというあなたが、そうなれるのにどれくらいの努力が必要なのだと思っているのだろうか。そうしたことが、想像すらついていないと感じるのだ。私は、現代演劇をする多くの若手役者と会っているが、そうした「ひっかかり」を割と頻繁に感じる。すこしばかり頑張っている劇団にそうした人が多いようにも感じる。
 話しは変わるが、彼らと同世代(20代半ば)のある能楽師は、1日12時間以上能楽漬けで毎日公演や稽古に励んでいる。言動も態度もしっかりしていて、挨拶も姿勢も、メールなどの対応もきちんとしている。そして何より、謙虚なのだ。謙虚さが表現者の適性としていいかどうか(魅力となるかどうか)は別として、謙虚な態度が生まれるのは、少なくとも自分の未熟さを受け入れているからだろう。ちなみに、彼は前述のチョン・ヨンドゥ氏のワークショップを紹介したら、忙しい時間をやりくりしてワークショップを見学に来た。そして、非常に的を射た感想を述べていた。言っては何だが、幼少から鍛えられたその技術は、20歳そこそこから始めた同年代の現代演劇の俳優とは雲泥の差がある。


 逆に先に述べた現代演劇の若い役者達と話していると「どうして自分がそんなにすごいと思えるのか」と感じてしまう。○○劇団に客演しました。劇作家の△△さんのワークショップを受けました。作・演出も3回しました等と自分をアピールする人もいるが、それがどれほど一般的なものか、また、自分のキャリアや表現者としての価値をどれだけ上げるものかをちゃんと考えているのだろうか。また、真剣に表現に向き合い、自分が観客に何を提示できるのか、何ができ、なにができていないのか、そもそも表現とは何か、そうしたことを考えているのだろうか。
 たとえば受験勉強をしているとき、どうしてこんなことをするのか、こうしたことが自分の将来とどう関わるのか、そんなことを考えた経験がある人は多いと思う。何でもそうだが、毎日毎日行う訓練などの継続はやっぱりつらくて長い。だから、しらずしらずにその意味を深く考えるようになるのではないだろうか。
 私も20代の頃は生意気で、不遜な態度を先輩方に取ってきたので、大きなことは言えないが、経験を積み「仕事」としてこうしたことを行うようになって初めて自分の未熟さを痛感し、だいぶ謙虚になった。とにかく井の中の蛙ではいけないと思う。自分を客観視すれば、謙虚にならざるを得ないことも出てくるに違いない。そして、客観的な自分とは他人に対して開かれた責任ある行動の中であらわになるものだと思う。

基礎練習って何?

2006年12月23日


 劇研アクターズラボが特に大事にしているのが「基礎練習」です。基礎練習の定義については、いろいろ議論の余地はあろうかと思いますが、ひとまず、現段階において、ラボが考える「基礎練習」について説明したいと思います。
 初心者にとっては何事も基礎からというのは当然ですので話がわかりますが、演劇を既にしていて、中には10年以上経験がある人に基礎練習というと「なぜ今更?」と思われることでしょう。「基礎」というと「初歩的なこと」と誤解されるからかもしれません。例えばスポーツの場合、特に球技などをした経験がある人はよくわかると思いますが、まず初歩の練習としてキャッチボールなどその競技に欠かせない基礎技術を使った練習をします。しかしその後、プロになってもそうした基礎技術の練習や、ランニング、ストレッチ、筋肉トレーニングなどは欠かさず行なわれます。それはとても納得できます。では演劇ではどうでしょう。演劇の場合は「どんな作品を目指すか」によって、訓練は違ってきます。俳優訓練の歴史は、作品と深く結びついてきましたので、スポーツのようにルールがあってそれに従って競技するのではなく、ルールそのものを変えていってしまうようなものですから、共通する「ある方法」が何かがよくわからないのかもしれません。
 ラボが考える基礎練習とは演技における根本的なことです。スポーツにたとえるなら、早く、するどく、しなやかに動けたりする体を作ること。そして、状況に応じて適切な判断が下せる、広い視野と、冷静な心を養うこと。けがをしない身体の管理方法を学ぶこと・・・。こんなことに通じるかもしれません。つまり、どんなスポーツにも対応できる能力を磨くように、どんな演劇にも応用できる基本的な感覚や体、精神性を養おうというものです。舞台表現の共通項、つまり見ている誰かのために演じること。その人に何かをつたえること。ある空間のなかでおこなわれること。こうした、根本的なことを見つめ、そこへの意識を高めることで、どんな表現にもアプローチできる基礎を身につけようということです。
 大学の演劇サークルや、普及目的のワークショップなどを通じて演劇を始める人も多くなりましたが、そうした所や、身近な劇団例を見聞きする限りでは、先輩から受け継がれた偏った演劇トレーニングがあたかも基礎であるかのように行われていたり、公演のための練習しかなされていなかったりして、ちょっと残念です。もちろん「あえいうえおあお」をいうことは大事です。腹筋を鍛えることも大事でしょう。きれいで大きな声が出ることも、恥ずかしいことをわざとして、それに打ち勝つことも大事かもしれません。しかし忘れては行けないのは、舞台でいかに自由でいられるか、また表現の本質を楽しめるようになるかということだと思います。そうしたことにむしろ遠回りとなる方法が、そうすべきと信じられて繰り返されるのはもったいないことです。表現とは何か、また表現するための身体やこころ、感覚ということはどういうことなのかを、考えたり、感じたりできる練習こそ、演技する人を「表現者」に変える基礎であり、表現の楽しさを与えてくれるのだと思います。

ラボを始めようと思った理由

2006年10月26日


 以前某養成所で講師をしていたことがあって、タレントや役者を目指す子供から、大人までいろいろな人に演技のワークショップをおこなった経験があります。始めたころは週1回、しかも1時間30分程度のワークで果たしてどれくらいの成果が出るのか、私は正直その効果を疑っていました。ところが、1年ぐらいワークを続けるとなかなか上手くなるのです。だんだん彼らと一緒に芝居を作りたいという欲求まで起こってきました。
  私は自分が受講した数々のワークショップ、そして企画したワークショップの授業を見て学んだこと。そして、書物から学んだ知識や役者の体験をもとにして、その中から確信を持って語れるわずかな内容でワークを組みたてていました。自分では努力してきたつもりですが、残念ながら演技という多様で複雑な技術の一片しかカバーできていないことや、彼らがプロの俳優になるためにはさらに多くの訓練を要することも感じていました。それでも、あきらかに続けることで成果はでたのです。それを見た時にこうしたレッスンの必要性を感じました。アマチュアであってもスポーツは結構練習をします。なのに演劇では基礎練習すら我流で、日頃はなんら稽古をしていない「役者」が多数であるという不思議さ。初心者が演劇を始めようとするととても敷居が高いという問題。そんな、演技や役者にまつわる問題は、継続的なワークが気楽に受けられる仕組みによって改善するのではないかと考えたのです。


 ところで、私が担当していた生徒に声優を目指す少女がいました。クラスを2年ぐらい受けたでしょうか。彼女はとても不器用で、自分に自信が無く、人が一回でできることを何度も失敗してしまいます。学校ではもしかするといじめられていたかもしれません。家庭の事情もあったのでしょう、毎日のように長時間アルバイトをしていました。過労で倒れながら、自分で稼いだお金でレッスンに通っていました。クラスの中でも彼女はちょっと浮いた存在で、彼女と組みたがらない生徒もいただろうし、熱心に質問することを疎ましく思っている人もいたでしょう。
 ある日のこと、私は短いセリフを使って即興演技の練習を行いました。繰り返し行ってきたエクササイズです。いつもつらそうに演技していた彼女が、その日はすっと自分の心に素直な演技をしました。いつもと違う演技に他の生徒もぐっと目を注ぎました。彼女の生き様が浮かび上がるような「生きた演技」に、息をのんで見ていた他の生徒から自然と拍手が起こりました。それを見て私は涙がこぼれそうになりました。
 彼女とはそれきりになってしまいましたが、あの感動と彼女のはにかんだ笑顔を今も忘れることができません。
 海外の俳優養成機関が年間900時間を越える膨大な時間を基礎練習に割いている事例を見れば、劇研アクターズラボは遠く遠く及びません。本物のプロの技術を身につけようとすればラボだけで挑むにはあまりに遠い・・・。しかし、たとえ僅かであってもそれをすることで演劇の可能性は明らかに高まるのです。それは事実です。基礎練習は地味でわかりづらいものですが、演技の最も大切な部分に力を与えてくれます。例えばあの少女の演技は、奇跡ではなく努力の賜物だと私は思っているのです。

掃除ができること

2006年9月23日


 劇研アクターズラボ(以下ラボ)に会場をお貸しいただいている会場のオーナーとお話ししていた時のこと、「この頃の人は、まず来て稽古場の掃除をしないのか?」と問われてはっとしました。今までラボでは、掃除はむしろさせないような空気がありました。受講生はお客様で「掃除はスタッフがするもの」という暗黙の了解みたいなものがあったのです。いろいろな都合を持ってここに来ている受講生に遠慮して、なんとなくそうなっていました。
オーナーはこうつづけました「もちろん私も始まる前には掃除はしているが、私の知っている演劇人はお稽古する人も当然したものだ。私が古いのかな・・・」
 私は受講する人が演劇の技術そのものを学ぶことばかり考えていました。もしかするとそれは演技者の自立を目的に謳いながら、お客様扱いして自立する心をそぐことだったかもしれません。
 演劇はそこに関わる人が主体的であってこそ楽しいし、よりいっそう意義深いものだと思います。また、舞台活動することで培われる「舞台に立つものとして当たり前の社会性や道徳、常識」を知ることも表現以前に大切なことです。挨拶や掃除、整理整頓、時間や期限を守るなどがそれにあたるものです。大きくいうと他人への配慮ということでしょうか。いわば、技術と共にそういうことができてやっと一人前ということです。
 さて、少し話が変わりますが、今や京都の舞台芸術活動の拠点となった京都芸術センターができるとき、京都舞台芸術協会を中心にどんなセンターが私たちの望むものか。という話し合いをしたことがあります。
そこで、私たちは「自分たちが掃除をする」ということを申し合わせました。掃除をすることでここは自分たちのものである、という意識をきちんと持ってゆこうとしたのです。上から与えられたもの、という意識では、かならずゴミを持ち帰らないものや、人の場所だから汚しても苦にならないもの、人が見ていないからとルールを破るものが出てくる。そうなると、せっかくのこの場所がモラルの低下した安っぽい場所になってしまう。ひいては管理の厳しい息苦しい場所になる。それではこの場所の意味が薄れてしまう。ここは自分たち京都で芸術活動をするものを映す鑑であるから、せっかくのこうしたすばらしい場所を自分たちのものとして守ってゆこうとしたのです。この精神は今も受け継がれ、京都芸術センターの使用者は使用する制作室のみならず、廊下や階段といった共用部分を掃除することが、使用の条件となっていますし、有名になるようなしっかりした芸術団体はきちんと主体的にその義務を果たしています。
 今回掃除の話を聞いてそれを思い出しました。ラボが会場としているアトリエ劇研や人間座スタジオ、そしてスペースイサン(*当時はこちらでも開講していました)はそれぞれ、演劇を愛する先人がいろいろな苦難の末、私財をなげうって建てた場所です。私たち後進の演劇人はそれを忘れてはいけないし、それがあったからこそこうして活動できているということに感謝しなければならない。
 ラボにはいろいろな人が来ています。中には遠くから来ていたり、お仕事で時間ギリギリにしか来られない人もいます。全員が義務としてそれをすることは不可能です。しかしそれでも、時間前に来られる人は、来た人からまず会場の掃除をする。それが自然とできることを大切な目標にしたいと思います。強制ではなく「あたりまえ」のこととして。

企画者紹介

杉山 準(すぎやま じゅん)

演劇プロデューサー。1995年まで主に役者として活動。1994年頃より舞台芸術の創作環境改善を目指して、各種ワークショップの企画を手掛けるようになる。地域に根ざして活動する人材の育成と地域の演劇環境の改善に力を注ぎ、各種事業を展開する。NPO劇研理事、財団法人高槻市文化振興事業団理事。